朝が来ても君は目覚めない

 目を開くと白い天井。周囲を見渡せば一人の男が机を前に椅子に座っていた。机には書類が散乱している。ペンを持ち書類に何やら書き込んでいた亜麻色の髪に菫色の瞳のそいつはこちらの様子に気づくと、
「目が覚めた?」なんて声を掛けてきた。
 自分がその男と接点があるかどうかなど分からなかったが、「あぁこの通りな」と答える事は出来た。辺りを見回すが、何も覚えのない光景に、ここは何処だと問い掛けると、
「君、」
 少しだけ驚くように目を見開いて、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……ここはモスクワだけど、記憶は?」
 そう問われて、俺は漠然とした不安を覚える。そして『記憶』と言われて過去の事を遡ろうとも、自分の過去の行動を思い出せない。今さっきまでどうしてたか、だけじゃない。今までどういう生き方をしてきたか、それすらも思い出せなかった。
「なるほどね…大体予想はついた」
 何がなるほどだ。自分でさえも何がなんだか分からないというのに見透かしたような事を言われるのでは気分が良くない。俺はそいつに向かってじろりと睨んでやったが、穏やかに微笑まれて効果などなかった。
「君は『ノイエプロイセン』君。君は僕の……ロシアから独立した『国』だよ」
「国……?ノイエプロイセンってのが俺の名前なのか?」
 何の冗談か。国というのは人と同じように意思をもって行動出来るものなのか?国という実感どころか、正直言っている意味が分からない。目の前の男は言葉を付け足した。
「国はね、人が集まって国家が作られるでしょ?そうするとその国の化身が生まれるんだ。まぁ…国じゃなくても人の集まるところに化身が生まれる事もあるんだけどね」
「俺が国の化身だと?ノイエプロイセンが俺の名前だって言うなら場所は何処なんだよ。聞いたことねぇぜ」
 俺は菫色の瞳の男の、ファンタジーな説明が信じられない。
「カリーニングラードが独立して国名をプロイセンにしたいって希望が出てたから、そのようにしただけだよ。本当に最近の事だから、地図とかも直ってないのが多いね」
 カリーニングラード。そう言われてその名称の記憶を手繰り寄せる。あの街は確かにプロイセンへの独立を希望していた事実があった。だが、どうしてその事実を知っているのかも、自分ではよく分からない。
「まぁ交渉としてお金は積んでもらったけど」
「お前も……化身なんだな?」俺がそう尋ねれば、そいつは穏やかに微笑みこう言った。
「ロシアだよ」
 ということは目の前にいるこのふわふわ猫っ毛の腹の見えない大男が俺の元宗主国か。よく独立出来たものだとこの直感的にそう思う。きっとこいつは易々と独立を許さなかっただろう。
「暫く君には勉強してもらうね。君の国の事情とか、他国の事情とか、わからないでしょ?あと、会議にも出て貰うよ」
「あぁ……って俺はお前から独立したんだろ?俺の勝手にさせてくれたっていいじゃねーか」
 背中を向け書類を束ねながら彼は不意に振り返る。
「そうはいかないよ。君の意識がはっきりしているなら良いけど記憶障害起こしてるんだもの。暫くは僕が面倒見てあげるからね」
 元宗主国の優しさだよ、とふわりと笑う。
 そんなんじゃ属国と宗主国の関係であるのと一緒で干渉しているのではないか。そう思うけれど、恐らくこの男に何を言っても無駄なのだろう。ここは我慢する他ならない。
 幸い、この男は今のところ俺自身をどうこうさせようという気はないようだ。ただ純粋に心配しているように見える。

 数日後。ロシアは俺の目が覚めた医務室から場所を変えて空き部屋を選んだ。そこは当分『ノイエプロイセン』が住んでいても良いようにカーペットは敷かれ、ベッドやテーブル、椅子などが整えられていた。医務室には窓がなかったが、この部屋には窓がある。外は心地よい春の陽光が降り注ぎ雪解けの水が流れを作っていた。
「どうせ『お勉強』で缶詰にされるんだろ……ここに」
 部屋の中には本棚も置かれており、そこには隙間なく本が詰められている。
「よく分かってるね。まずはこの本を読んで貰おうかな」そう話しながら窮屈そうな本棚から引き抜かれて机に置いたのは厚さ十センチの歴史書だ。思わず唾をゴクリと飲み込み、その本から目を背けようとすると、
「これが読み終わったら、これとこれもね」そう言って出てきたのは先程の本に比べれば幾分か薄い歴史書と厚さ十二センチの歴史書。これらを読めと。
「分厚いのはロシアの本。そっちの薄いのはプロイセン君のところの本。それと一緒に渡した分厚い本はドイツ君のところの本だよ。しっかり読んでね」
 こんな分厚い本を前に読む気も削がれてしまう。何でこんなものを読まないといけないのかと。
「宗主国の事を知るのは当たり前の事でしょ?プロイセン君の本も…君はノイエプロイセンなんだから、意味は分かるよね?先人の事を学んでみてよ。君の記憶にも結びつくはずだよ。ドイツの本は、そのプロイセンと深い結びつきがある。ここまでは切っても切れない仲だと思うからまるごと読んでね?」
 当然の物言いに圧倒され俺が口を閉ざしていると、ロシアは続けてこう言った。
「黙ってても拒否権はないよ。これらを理解したら、今度は外に連れていてあげる。ドイツ君のところに行こう」
 ドイツ『君』と言われ、ドイツという国の化身の話である事に気付き、俺はあぁと頷く。
「……プロイセンは?俺とプロイセンって結びつき強いんだろ?名前の感じからして」
 プロイセンにも会う事になるんだろ?と何の気なしに聞いてみれば衝撃的な言葉が俺を襲った。
「プロイセン君は駄目だよ。会えない。だって、死んじゃったもん」
 微笑みながら言う為、冗談にしか聞こえない。だけれど、不意に顔を逸らして俯き涙を我慢する様子に、それが嘘ではないと悟った。
「プロイセンは……死んだ?」
「死んだよ。ほら、歴史書を読んでみると分かるよ」そう言われてプロイセンの歴史書の最後の方をさらりと読む。確かに、国家はなくなったようだった。プロイセンの歴史がどういうものかは分からないが、既に国としてなくなっている。即ち化身もいない可能性が高い。ロシアの言っている事は本当かもしれない。
 国自体が永遠に続くわけではない事は知っているが、自分が国という存在である事を考えると他人事のようには思えない。命が永遠にあるわけではないのだ。
「君は死なないでね」
「あぁ……死にたくねぇよ」そう答えれば、彼は少しほっとしたように微笑んだ。よく見ると涙も引っ込んだようだ。

 ともあれ、俺は歴史の勉強をする事となった。『ノイエプロイセン』の浅い歴史書も出せよと思ったが、ロシアに置き去りにされた本を見つめる。徐ろに一冊の本を手にとった。プロイセンの歴史書だ。一番薄い歴史書はこれだから、この本が一番読むのに楽に違いない。何故こんな勉強してるんだと嫌な気もしたが、国である以上相手の事を知らないとどう付き合えばいいのかも分からないのだろう。プロイセンの歴史を勉強していくと、確かにドイツとは切っても切れない仲とやらで連邦国家であった時期がある。その化身であるドイツとプロイセンはどんな関係だったのだろうか。上下関係もない対等な立場だったのだろうか。自身とロシアの不確かな関係性と比較してどうであるのかを気にしてしまう。元々宗主国と属国の関係ではないのだから、ドイツとプロイセンはもう少し上手くやってるに違いない。
 プロイセンを学べば不思議とドイツに興味が湧いた。自国の宗主国の事を後回しにするとは、ここにロシアがいたら呪われそうなものだがロシアは今はいない。ドイツの歴史書に手を伸ばし、ぱらぱらと歴史を紐解いた。元々頭の回転はいいようで、小難しい歴史書であっても頭に叩き込めばすんなりと覚えられた。ドイツと相対するソビエト連邦との衝突が歴史上の事で気に掛かった。プロイセンやドイツの敵ということは、ノイエプロイセンにとっても敵になりうるのではないだろうか。敵視されている可能性がある。気をつけねば、と思い歴史書を閉じた。
 それがまさか次に読む宗主国様に深く関係する事とは露知らず。あいつはロシアだと名乗っていたが、もしかしてロシアの前はソビエト連邦その人だったんじゃないだろうか。一つの予感が俺を襲った。この予感は少し恐ろしい。なにせ、ドイツとプロイセンはこいつと敵対していたのだ。しかしよく考えればこの時、ソビエト連邦が奪ったケーニヒスベルクが今の俺自身じゃないか。カリーニングラードの旧名はケーニヒスベルク。だから、国民はプロイセンの名を希望したのか、と俺は納得した。
 ロシアの元から生まれた自身はドイツやプロイセンを憎むべきなのだろうか。それとも懐かしむべきものとして積極的に受け入れていくべきなのだろうか。前者は国民の意志とは真逆そうで、後者はロシアの妬みを買いそうな気がした。
「わっかんねーなぁ。歴史書だけ見ても、化身の事が分からねーんじゃ今後の身の振り方も楽に決められねー」
 ばさ、と乱雑にロシアの歴史書をドイツとプロイセンの歴史書の上に積み上げた。勉強はこれでおしまいだ。ここまで読むのに3日と掛かってしまったが、早い方だろう。
 ロシアに報告しなければ、と俺は椅子から立ち上がりロシアが日中仕事している時に居るという部屋に向かった。国の化身も国民と同じように仕事をしていると聞き、楽なもんじゃねぇなと思った。国の化身は崇められて偉ぶればいいもんじゃないのかと考えたがそうじゃないらしい。ロシアは、上司の言う事に振り回されてばかりだよと俺が医務室に居た頃、様子見によく来ていた時に気苦労を語っていた。
 ロシアは俺が勉強するようになってからも一日に一回は顔を出した。俺からは特に話す事など何もなかったが、今日はこれから視察に行ってくるだの今日の晩ご飯はボルシチだのとあいつは楽しそうに話をする。何気ない事ばかりだが、右も左も分からない俺を気遣ってくれているようだった。
 俺はロシアの居る部屋に辿り着き、ドアノブを引いた。ロシアの仕事部屋はそう広くはないが大きな机一つと小さなテーブルにソファが備えつけれている。簡易キッチンのように手を濯ぐシンクと冷蔵庫もあり、快適そうだなと思ったのは前回来た時の感想だ。
 ロシアはその大きな机を前に仕事をしているようで、こちらの気配に気づいていないようだった。
「おい」と声を掛けると、ロシアはびくりと肩を跳ねかせる。
「わ、吃驚した。ノックしてよ、もう……」
「おー、したした」
「本当に?」
 白々しい嘘を吐くとロシアは疑いの眼差しでこちらを見てきた。
「それより、お勉強タイム終わったぜ」
「もう読み終わったの?流石だね。覚えられた?」
 俺は、当然だ、と宣う。ロシアはグラスに注がれた透明の液体を呷ってから「あ」とこちらを見て言い漏らした。
「君も飲む?ウォトカ」
「……じゃあ、一杯だけ」
 じゃあそこに掛けてよ、とソファに促され腰掛けてウォッカを待つ。テーブルには何枚か書類が置かれていた。おいおい、まだ仕事中なのにこいつウォッカなんて飲んでんのかよ。アル中か。
 コン、と硝子とテーブルがぶつかる小さな音が響き、グラスがテーブルに置かれた。ロシアは机から自分のグラスを手に持つと向かい側のソファに腰掛け、ウォッカをまた呷った。俺も同じくグラスを口につけると、きついアルコールの香りが鼻の奥まで広がる。
「歴史の勉強は進んだみたいだから、約束通りドイツ君に君を紹介してあげるね。と言っても、僕とドイツ君の会議についでとして君を連れて行くだけだから長話はしないけど」
 はいこれ、とテーブルに先に陣取られていた書類数枚をこちらに差し向けた。どうやらドイツとの会議の資料らしい。ロシアと俺は違う国同士だと言うのに、こんなものを見せても良いのだろうかと疑問を抱きながらグラスをテーブルへと戻し、その書類を斜め読みする。
「ドイツってどんな奴なんだ?」
 書類を軽く読みながらそう質問すると、ロシアは少し困り顔で口を開く。
「真面目でしっかりした子だよ」
「仲悪いのか?」
 表情から察してそう問えば、ロシアは慌てて首を振った。
「そんな事ないよ。ちょっと前までは喧嘩してたけど、今は時折旅行にも来てくれるし……」
「じゃあなんで変な顔したんだよ」
「それは……」と言い淀む。言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた後ロシアはちらりとこちらを見、おずおずと話し始めた。
「プロイセン君の弟なんだ、ドイツ君って」
「プロイセンって、亡くなった?」
 聞き返すと酷く落ち込んだ様子で頷いた。ロシアはプロイセンの話になると途端に元気を失くす。よほど仲の良かった人物なのだろうか。
「プロイセン君とドイツ君は仲の良い兄弟だったんだ。僕にも姉さんと妹がいるけど、ちょっと羨ましいくらいのね。だから、君を見たらどう思うのかちょっと心配で……」
 何故心配に繋がるのか疑問に思うと、ロシアは「君はプロイセン君と関係が深いから」と言った。しかしそんな記憶など欠片も残っていないのでピンと来ない。
「ドイツ君にはプロイセン君が死んじゃった事内緒にしてるんだ。ショックが大きいと思うから」
「は?でもいつかはバレるだろ。それに弟なんだったら一層教えてやった方がいいじゃねーか」
 先延ばしにしたところで仕方のない事だと思う。
 ドイツは何十年とプロイセンに会っていない事になる。プロイセンが死んだのは一九四七年だろう。プロイセン州の廃止が布告された日はその年の二月二十五日。歴史上で『プロイセン』は終わりを告げた。
 国が死ぬというのはどんな感じなのだろうか。人間のように傷を負って血を流したり、疲労困憊で衰弱したりするのだろうか。それとも霊体のように消えてなくなるのだろうか。今のところ死にたいだなんて事とは思わないが、もし自分が死ぬとしたら俺は綺麗な状態で亡くなりたい。
「死を告げずにただ、今はいない……そういう事にしておいた方が、幸せなんだと僕は思うよ。だって希望は残ってるんだもの」
 グラスに残ったウォッカを飲み干し、ロシアは言う。果たして本当にそうだろうか。
「…………ん?」
「どうかしたの?」
「いや……」
 俺は聞き返すロシアになんでもないと答えたが、今一瞬感じた違和感に戸惑った。何がそう思わせるのかが分からない。だから、その違和感に俺は自分に気づかなかったふりをした。
「そうだ、いいこと思いついたよ」
 記憶のない君には大変な事かもしれないけど、と一言前置きしてロシアは切り出した。
「君に、ドイツ君の前でプロイセン君のふりをして欲しい」
「……なんで」
 真剣な面持ちでロシアは言う。聞き返せば悲しげな色が表情に現れ、少し躊躇いを見せたが口を開いた。
「ドイツ君が喜ぶから」
 思わず「は?」と声を上げてしまった。喜ぶから「はいそうですか」と出来るはずがない。相手はプロイセンの弟だと聞くドイツだ。更に言えばドイツとプロイセンは仲の良い兄弟だったと言っていた。そんなの無茶な話だろう。
「どうやってごまかすんだよ。プロイセンなんて知りもしねぇし見た目も違うだろうし化けるってったって……」
「外見は凄く似てるから大丈夫だよ」
 似ていると言われ、テーブルに置かれたグラスに映る自分の容姿に気づく。銀髪の赤眼。なかなか格好良いと自負している俺に似ているだなんて流石プロイセンと名のつく男だ、と相手の方が年輩である事を忘れて思う。
「お前、バレる嘘が好きなのな」
「僕はバレる嘘が好きなんじゃないよ。幸せな嘘ならついた方がいいって思うだけ」
 確かに、言われてみればバレると分かっている嘘なら初めからつかなければいいのだ。
 でも嘘はいつかバレるだろう。いつまででも嘘をついてはいられない。綻びが生じて嘘が知られた時、それは相手を傷つけるかもしれないし、自分だって相手からの信頼を失い傷つくかもしれない。
「彼、凄くプロイセン君に会いたがってるの。ドイツ君のために、お願い」
 弱点など見せないだろうと思っていた相手が自分に頭を下げるのだ。俺はその直向きさに戸惑いを見せると、ロシアはその顔を上げてちょっとだけ困った顔を見せた。
「って、言っても断るなんて言わせないけどね」
「……あー……、分かったけどよ……」
 ロシアは『元』宗主国。今の俺の立場としてはロシアの言葉を知らんふり出来るはずだと言うのに、断れば恐ろしい事が待ち受けていそうだと第六感が言っていた。記憶がなくなる前の俺は、相当ロシアにこき使われていたに違いない。俺は仕方なく了承すると、でもよ、と付け加えた。
「幸せな嘘があったとしても、俺はやっぱり正直に言った方がいいと思うけどな」
 そう告げた俺に、ロシアはどんな表情を浮かべただろうか。

「お前も心が狭ぇな。折角国外に来たんだから観光する時間くらいくれりゃあいいもんなのによ」
「僕だって今日観光する時間があれば君を案内する気くらいはあったんだけどね」
 モスクワのシェレメーチエボ空港を発ち、テーゲル空港へはドイツ時間の十三時に到着した。待ち合わせ時間は十三時半だから、ベルリン市内に行くだけで二十分は掛かるしギリギリだ。そんな余裕のないの日程を組んだロシアは鼻から観光なんてする気がないのだと思う。そもそもモスクワの医務室で目覚めてから一度だって観光させて貰ってなどいない。言うまでもなく俺の首都だと言うカリーニングラードもだ。せめてモスクワ市街くらい自由に見させてくれてもいいものだが、ロシアは次へ次へと俺に課題を課し外に出る余裕すら与えなかった。それを考えると、今回ドイツと会うという事で外に連れ出したのは、例外な事なのかもしれない。
「でも別にいいでしょ、会議の間は君は自由なんだしその間少し見てくれば」
 ロシアがドイツと会議をしている間、他の国である俺が参加するわけにもいかないので自由行動という事になっている。
「たった一時間で何が出来るって言うんだよ」
「さあ?スターバックスくらいなら入れるんじゃない?」
「なんでドイツ来てまでスターバックス入らなきゃならねーんだよ」
 折角来たのだからドイツ発祥のものだとかドイツの歴史を感じる建築物だとかが見たい。そうぼやけば、「そんなのここはドイツなんだから、周りの建物はドイツ君のものだしいいでしょ」なんて言う。納得がいかない。
 会議場まで辿り着くと建物の前で俺達は別れた。一時間後にはまたここに戻って来なければならないが、よく考えてみればロシアの監視下にないのは記憶を失くしてから初めてだ。
 何をして時間を潰そうと考えるけれども、やはり充分な観光は出来そうにない。俺は少し小腹が減っている事に気づくと、そう言えば機内食は簡素なものしか出なかった。期待することさえなく味もいまいちだ。エコノミークラスでももっとマシな機内食が出るところなんていくらでもあるだろうに、ロシアが取ったものは中でも格安の航空チケットだったに違いない。
 美味いドイツ料理でも食べてやろうかと街を散策し手近なところで手を打ってレストランへと入った。そこで、店員を呼びつけチューリンガーブラートヴルストを注文する。視界の端にちらりとメニュー表のビールの文字が掠めた。
「あー……」
 いや、飲むわけにはいかない。飲んだらロシアに何言われるか分かったものではない。だがドイツビール。ドイツビールが飲めるのだ。
 一瞬の迷いからとうとう俺は誘惑に打ち勝つことが出来ずに「シュヴァルツビアも」と追加してしまった。シュヴァルツビアは香ばしい麦芽の味わいがするコクのあるビール。本場のビールの味とやらを飲んでみたい。
 少しすると、シュヴァルツビアの、黒く色の濃いビールで満たされたジョッキが運ばれてきた。俺はそれをぐびっと呷る。
「うめぇ」
 まるで久しぶりに飲んだように懐かしい味だ。思わずもう一口とぐびぐび飲んでしまってジョッキの二分の一が無くなってしまった。ヴルストを食べる前に全部飲み干してしまっては惜しい事になる。美味い御馳走の為には待つ事も大事だ。
 程なくして、ヴルストが運ばれて来た。肉の香りとマジョラムの風味が食欲を誘う。皿にはヴルストに茹でたじゃがいもとパセリが添えられていた。早速フォークをヴルストに突き立てて齧り付くとじゅわっと肉汁の旨みが口に広がる。
「ヴルストもうめぇー」
 親しみのある味に、「はー、ドイツ来て良かった。遊びじゃねぇけど」とじゃがいもをフォークで潰しながら独り言ちる。旨いビールとヴルスト。完璧なドイツ料理じゃねぇか。
 俺はのんびりとこのレストランでロシアの会議が終わるまで時間を潰す事にした。

 いよいよ時間となりロシアの居る会議場へと向かう。ロシアは会議場の前で待っていたようだ。
「戻って来るのが遅いよ。今まで何してたの?」
「待たせて悪ぃな、飯食ってた。って何で時間に遅れてないのに怒られなきゃならねぇんだ俺は」
「君が僕を待つ立場じゃないからだよ」
 よくもまぁ身勝手な事を言う。
「あ、お酒臭い。ピーヴァ(ビール)でも飲んでたの?僕が真面目にプロイセン君のふりをしてって頼んでるのに」
「悪ぃ、一杯だけ飲んじまった」
「も〜……」
 ロシアは呆れ声で溜め息を吐くと、困ったような表情で責めるように言った。
「ドイツ君には話してあるから、上手くやってよね」
「任せとけ」とは答えたものの正直自信はない。慣れた相手に嘘を吐くなら相手の出方も想像つくだろうに、こちらは初めて会うのだ。慎重にならなければ失敗する。しかも相手はプロイセンをよく知る人物。プロイセンと俺は会った事もない他人だぞ?無謀な気がしてきた。しかし一度は引き受けてしまったものだから、全うしなければ。
「兄さん……!」
 ロシアが待ち合わせているという会議室に入るなり、体格の良いオールバックの髪型をした金髪碧眼の男がこちらに反応する。
「ほら、君の事だよ」小声でロシアにそう言われ、慌ててぎこちなく笑い「よ、よぉ……」なんて答える。この男がドイツか。眉間に皺を寄せて、いかにも気難しい性格をしていそうだった。
「今まで何処をほっつき歩いていたんだ。探しまわったんだぞ」
「悪ぃな、心配掛けて……」
 ドイツは明らかに安堵した様子を浮かべたが、プロイセンが亡くなって以来会っていないという割にはあっさりしていないだろうか。いや、国という長い年月の尺度からすれば、何十年など短い期間に過ぎないのかもしれない。俺は独立してから間もないから、そう感じないだけだろうか。
 ごほん、とドイツは咳払いをして問い掛けてきた。
「あー……で、兄貴はいつ頃帰って来るつもりなんだ?」
 ロシアは会議室の中にある椅子へと向かい座席を確保すると、手招きをして隣りに座るように促される。
「え?あぁ……えっと、もう暫くロシアん家に世話になろうと思ってる」
 俺はロシアに促されるまま隣りに座ると、ドイツは机を挟んだ向かいの席に腰を落ち着けた。
 それにしても、本当にプロイセンと俺は外見が似ているらしい。初見で嘘がバレるだろうと思っていたのに、今のところ上手くいっている。
「もう充分世話になっただろう。何ヶ月連絡もなしにロシアのところに入り浸っていたのだから、もうそろそろ……」
「カリーニングラードの事で分からない事があるんだよ。手伝って貰ってたんだ。もう少し彼を借りられないかな?」
 ドイツの言葉を遮りロシアはそう問い掛けた。余り俺に喋らせるとバレると思ったのだろうか。ドイツの言葉に僅かな疑問が浮かんだが、ドイツに再び問い掛けられ思考はそこで途絶えた。
「もう少しってどのくらいだ?」
「もう少しっつったらもう少しだろ」
 今は集中しなければ。どう答えると上手くやり過ごせるか考えながら話していると、ロシアが口を挟んだ。
「何年くらいか」
「少しどころじゃないだろう」
「別に一生こっちに居ても構わないよ」
 うふ、と微笑むロシアにドイツは指をこめかみに押し当てた。
「兄貴がそれを望むなら俺も構わないが……ロシアの事は嫌いだったんじゃなかったのか、兄貴?」
 何処か困り顔の様子で俺に振られ、慌てて言葉を返すが上手く誤魔化せたかは謎だ。
「えっ!?いやー、まぁ……そんな事思わなくもなかったような、気が……」
 ドイツは俺の言葉に深く溜め息を吐く。プロイセンはロシアの事を好いていなかったようだ。それも、本人を目の前にして言える程。
「……連絡くらい定期的に寄越してくれ。突然何も連絡が来なくなると、流石に心配する」
「悪かったな、ロシアの手伝いが忙しくてよぉ……今度から手紙なり電話なりするぜ」
「そうしてくれ」
 ひとまずドイツは安心したようだ。これで話は終わるだろうかと思いきや。
「時折ベルリッツ達に顔を見せてやってくれ。あいつらも心配する」
「ベルリッツ……?」
 国の名前だろうか。いや、そんな国の名前は今のところ聞いた事がない。小国だろうか、と脂汗を掻き始めるとロシアが口を開く。
「可愛いよねぇ、君の家のワンちゃん達」とそう言って俺の太ももを叩く。ちゃんとしろ、と責められたようだ。
「っそうだな!たまに帰ってなでなでしてやるぜー!」
 ケセセ、と笑い飛ばしその場をやり過ごす。
「そうだ、そろそろ家に戻らねぇとなロシア。仕事手伝うぜ。忙しいもんな!」
 早く今の状況を抜け出したくて、俺はロシアに帰りを急かす。
「そうだね、帰りのチケットも余り時間に余裕持たせてなかったからそろそろ空港に向かわないと」
 ロシアも上手く話を合わせてくれて、やっとこれで解放されると思った。
「そうか……気をつけて行くんだぞ、兄貴」
「あぁ、ドイツも気をつけろよ」
 そう告げた瞬間に、ドイツの眉間の皺が増えた。
「……兄貴?」
 一瞬にして冷や汗が吹き出る。思わず引きつった顔で、「なんだよドイツ」と答えると目の前の彼は益々縦皺を増やした。横にいるロシアが「あーあ」と小声で呟いた気がした。
「どういう風の吹き回しだ?」
「どういうって?何の事だか分からねぇぞ」
「さっきから何処か様子が可笑しいと思っていたんだが……」
 ドイツが責め立てるように俺に話しかけてくる。そこにロシアは言葉で遮った。
「ドイツ君、ちょっとプロイセン君を外して話がしたいんだけどいいかな?」
「何だと?」
 威圧感を纏ったドイツに俺は気持ち悪い汗が止まらなかった。ロシアも怒らせたくない相手だが、ドイツも相当なものだ。
「勿論プロイセン君の事で。込み入った話だし、彼も状況が状況だから自分で上手く説明が出来ないんだ」
「兄貴の話なら兄貴がここに居ても構わないだろう?」
「プロイセン君も混乱しちゃうから」
 こっちも事情があるんだよ、と暗に言うとドイツは渋々「分かった」と頷いた。俺はロシアに退室を促され、会議室から出て廊下で話が終わるのを待つ事になった。ただ待つのも退屈だ。俺は会議室の中で一体どんな話をしているのだろうかと気になり、ドアに耳を近づける。が、声は聞こえない。「一人楽しすぎるぜー」と呟いて会議室のドアに凭れかかったところで、中から怒号が響いてきた。
「やはり兄貴をお前のところに行かせるんじゃなかった!」
 低い声が廊下まで届く。俺は慌ててドアに耳をつけた。ロシアもそれに何か答えているようだったが、何を言っているかは分からない。
「お前のところに行く前の兄貴は何処か不自然だったんだ。あの時止めていればこんな事には……!」
 間も無くして「もういい」と聞こえ、会議室のドアが開き俺は前のめりに転びそうになった。ぼすんとドイツの胸板にぶつかると、慌てて俺は身体を起こした。険しい表情のドイツがこちらを見て言う。
「帰るぞ兄さん!」
 怒りを露わにしたドイツに俺はどうしたらいいのか迷った。ロシアはドイツの後ろの方で立ち尽くしている。しかし、帰るぞと言われたところで俺はプロイセンではない。ドイツのところに帰ってどうしろと言うのだろう。ロシアのところに長く居るわけにもいかないのだが、元宗主国が面倒を見てくれると言っているのだ。それならそうした方が気楽で不都合もないに違いない。
 嘘はバレるものだ。そうだ、腹を括ってしまえばいい。何があったかは分からないがこんなに怒っているのだ、先程プロイセンではない事を疑われてしまったし、もう嘘を通し続けるのは無理な話だ。
「ドイツ、ロシアと何を話してたんだか知らねぇが、もうバレてんだろ?俺はプロイセンじゃなくてノイエプロイセンって言うんだ。騙して悪かっ」
「ロシアに何を言われたかは分からんが、兄さんは兄さんだ。貴方は記憶を思い出すまで家で療養するといい」
 記憶を思い出すまで?
「ま、待てよ……!何を勘違いして……」
 抵抗に言いかけた言葉は最後まで言えずに、俺はドイツに腕を掴まれ引きずられるようにして会議室から離れていく。
「おい、助けろよロシ……っ」
 ロシアの名前を呼ぼうとすると、悲哀の表情を浮かべて焦点の何処か合わない瞳でこちらを見るロシアに背筋が凍った。何故フォローに回らない。俺はお前に言われて嘘を吐く事にしたというのに。それは責任逃れと一緒だぞ、と思いながら俺とロシアは離れ離れになってしまった。
 ドイツは俺を掴まえていない方の手で携帯電話を持ち、何処かへ連絡していた。口ぶりから察するに、この後の仕事の予定の話だった。そちらに戻るのは少し遅れると。兄弟とは言え、少し過干渉すぎないか?それとも何十年も不在にしていればこうなるものなのだろうか。

「ここが俺達の家だ。思い出せるか?」
「……いや」
 タクシーを掴まえて何処に連れて行かれるかと思えば、そこはドイツの屋敷だった。鍵を開けて中へと入ると三匹の犬が出迎えた。
「兄さん。左からアスター、ブラッキー、ベルリッツだ」
「おぉ、お前らがドイツの飼ってる犬か」
 そっと手を出し頭を撫でてやると、尻尾をぱたぱたして喜んでいる様子だ。
「お利口さんだな。噛まねえし、煩く吠えない」
「当たり前だろう。家族である俺と兄さん相手なのだから、吠える必要もない」
 俺の外見は犬にまで嘘を吐けるレベルだったのか。半信半疑にそう思うが、もうここまで来てはプロイセンが俺ではないと言う証拠もなく、否定は出来なくなっていた。
「あのよ、俺がいなかった時期ってどれくらいなんだ?」
「……去年の十二月に兄さんは家を出て行った。だから、もう五ヶ月は経つ」
「そんなもんなのか」
 何十年も会っていない割にはあっさりした再会だった事に納得がいく。てっきり感動の再開!になるかと思っていたのだが。五ヶ月くらいなら、行く先が知り合いのところと分かっていれば「久しぶりだな」「心配したぞ」「連絡は寄越してくれ」くらいで済むだろう。さっきの会話で、どうやらドイツは俺がロシアのところに行っている事は知っていたようだし。
 ドイツは俺を中へと促すとリビングのソファに座るよう指示した。ドイツはキッチンらしきところへ向かったので、飲み物でも入れる気なのかもしれない。
 俺は家の内部を見渡す。綺麗に片付いている部屋だ。既視感を感じるという事は、ロシアの言っていた言葉はやはり嘘で、俺はプロイセンなのだろうか。何十年も住んでいるからだろう壁の些細な汚れすら見覚えがある気がしてくる。
「俺とドイツは一緒に暮らしてるのか?」
「そうだ。ドイツ帝国を築いた時から一緒に住んでいる。兄さんは、自分が国だという事は知っているのか?」
 ドイツは二つのマグカップを手にリビングへと戻って来る。目の前のテーブルに置かれたのはコーヒーだ。
「ロシアに教えて貰ったからな。一応、ロシアとドイツとプロイセンの歴史は頭に入ってるぜ」
 そう答えてから、俺は話を戻した。
「プロイセンは歴史上死んだよな?」
 歴史書にはプロイセンが没した事は明確に記されていたのを記憶している。なら何故プロイセンの俺は生きているというのか。
 俺は出されたコーヒーを口につけると、熱さで思わず唇をカップから離す。少し冷ました方が良さそうだ。
「歴史上では、な。だが兄さんは生きている。それはプロイセンが無くなる一歩前というところで、兄さんは俺の土地の半分を請け負ったからだ。俺は西ドイツになり、兄さんは東ドイツの仕事をしていた。俺は兄さんの為と思って自分の領土を分けたのだが、あの時分けていなかったら俺はどうなっていたかと思うと恐ろしいな」
「東西に分断されちまったんだろ?その間会えなかったんじゃないのか?」
 ベルリンの壁によってベルリンの東と西の行き来は出来なくなっていたはずだ。東ベルリンから西ベルリンに行く住民が絶えない為壁を作ったと言うが、壁が作られてからも度々壁を越えようとする住民が射殺されたと聞く。
 確かにその時ドイツが一人の国として生きていた場合、身が引き裂かれるような痛みを味わったかもしれない。
「会えなかったさ。でも生きていればいつか会える時が来る。そう思ってあの頃は懸命に生きていた」
「希望を捨てずによく耐えたもんだ」
 懲りもせず熱いコーヒーに口をつけて啜った。少しずつ飲めば、先程よりは火傷せず多少マシになるかもしれない。
「兄さんこそあの時はよくロシアと一緒にいて平気そうな顔をしていられたな」
 その言葉に思わず目をドイツへと向ける。
「……お前は、ロシアの事嫌いなのか?」
「今は嫌いではないが。あの頃は憎んでいた。兄さんの領土を奪い取っていったからな」
 以前ロシアの言っていたように、今はそこまで仲が悪くはないらしい。先程の会議室で見る限り、ドイツ自身はロシアにあまり信頼を向けてはいないと思われるが、昔はどうあれ、表面上は上手くやっているようだった。
「……今の兄さんはどうなんだ?」
「あァ?俺?」
 ロシアに対しての感情?未だに何を考えているか分からないのだ。俺がプロイセンであるにも関わらず、記憶を失くした事を利用しノイエプロイセンだと偽の国をでっち上げる。その意図が。ロシアの事を嫌いだとは思わない。しかし今は信用も出来なかった。
「まぁ……なんて言うか、面倒臭い奴だなと思う」
 幸せな嘘なんてあるのかどうかは分からないが、俺に嘘をついた事は後悔させてやりたい。
「何処か大人になりきれてねぇしな。図体のでかい子供みたいだ」
「それは兄さんも同じだろう。心配ばかり掛けさせて」
「ケセセ、悪ぃな」
 そう謝りはするが、俺はこのままドイツのところに居て良いのだろうか。ロシアの吐いた嘘は俺の心に傷をつけてひりひりとした痛みを残す。まるで紙で指を切ったみたいだ。じわじわとした痛みに違和感を感じながら、今を過ごすのは居心地が悪い。
 すぐにこの家を出てロシアに「どういう事だ説明しろ」と言っても答えてくれない気がするし、大体にしてドイツもきっとそれを許さないだろう。だから、ドイツの家に居る間、少しロシアについて考えようと思う。何故そんな嘘をついたのかを。

 ドイツに聞いたところ、カリーニングラードが独立したなんて言う話も嘘のようだった。あそこは元はプロイセンの領土だが、今はロシアの領土として今も生活されている。
 俺は兄さんの部屋だと案内された二階の部屋のベッドで寝っ転がりながら考えこんでいた。俺がこの家に来てもう一週間経つ。何も思い出せないまま、ドイツとの生活にも多少慣れて来た。ドイツは俺の記憶の事が気掛かりなようだったが、無理に思い出させても悪い事があっては困ると考えているのか無茶な事は言わなかった。分からない事は聞けば答えてくれる。が、深くこちらに問い掛ける事はなかった。
 ロシアからは音沙汰も無い。連絡手段が電話だとすれば、ドイツの家に掛かってくれば勝手の分からない俺が真っ先に受話器を取るわけにもいかず、今ロシアとドイツが電話をしたらまた揉めるに違いない。手紙もドイツの目があるのでは、例えくれたとしても中身は知られるに違いなかった。そうではなかったとしても、ロシアは俺に何の連絡もしてくる気配がなかった。
 ロシアは俺がプロイセンであると不都合があったのだろうと推測する。だがしかし、ドイツにはプロイセンが何事もなく無事である事を証明したかった。俺が記憶を失くしたのは意図的なものなのかそれともそうじゃないのか。
 その時、俺はいつだったかロシアに言われた言葉を思い出した。
『君は死なないでね』
「死にたくねぇよ」
 ロシアの言われた言葉に返した言葉を口にする。
 プロイセンが俺だとすれば、その言葉に違和感を覚える。嫌味のつもりだったのだろうか。いや、そうではない気がした。あの時ロシアは明らかに、安堵した表情を浮かべたのだ。ロシアは『プロイセンの死』に何処か過敏になっている。『プロイセン』はこうして生きているのに、だ。
「幸せな嘘、か」
 また、ロシアの言葉を思い出す。
『幸せな嘘があったとしても、俺はやっぱり正直に言った方がいいと思うけどな』
 そう告げたあの時の俺に、ロシアはどんな表情を浮かべただろうか。
 ……苦しそうな表情を、浮かべなかっただろうか。
 ロシアが嘘を吐くには理由なしではないだろう。その幸せな嘘とやらの為に、俺に嘘を吐いた。こんなに、いとも容易くバレてしまう嘘を突き通そうとした理由を、俺は知らなければならない。
 ロシアにとって、プロイセンは生きていた方が都合がいいのか悪いのか。それすらも把握出来ない。世界に対しては、プロイセンである俺は生きていた方が都合が良いが、ロシアの個人的な部分に対しては死んでしまった事にした方が都合がよかったのかもしれない。そして、ロシアがすぐにドイツの元に返さなかったのも、自分の監視下に置いておきたかったからだ。記憶のないままの俺の方が都合が良かったのだろう。という事は、この記憶喪失はロシアと関係があるという事になる。
 俺はロシアに殴られでもして記憶喪失になったのだろうか。あの目が覚めた日、頭が痛いなどとは思わなかった。ひとまず、殴られてはいないのだろう。
 頭を悩ませていると、俺はずきりと頭に刺すような痛みを感じた。記憶喪失だというのに無理に思い出そうとしすぎたのだろうか。
 ぐるりと部屋を一瞥すると、本棚の上に何冊か本が積まれていた。
「なんだあれ」
 本棚にある書物は一通り手掛かりになるかと斜め読みしたが、本棚の上の本は気づなかった。手を伸ばしその冊子を手に取る。どうやらそれは日記帳のようだった。
 最後の白紙のページから、一番新しい日付の日記を捲ると一行だけ書かれた文字。
『ロシアなら、叶えてくれるだろう』
 その時、目覚めてから一度だって覚えのない言葉が再生された。
「いいよ、殺してあげる」
 俺ははっとし顔を上げるが、映るのは部屋の天井だ。視界の端にも誰もいない。言葉を失い、冷汗がだらりと背中を伝う。
 今のは。声にならず唇だけでその言葉を吐き出す。
 さっきの聞こえてきた言葉は、ロシアの、ふわふわとした柔らかな声だった。
 俺はその日記帳を持ったまま、クローゼットにある上着を手に取り部屋から飛び出た。階段を駆け下りたところでリビングに居るヴェストを見つける。
「ヴェスト、ちょっと出掛けてくる!」
「兄さん?出掛けてくるって何処まで……」
「ちょっとすぐそこ、ロシアんとこだ!『今度は』ちゃんとすぐ帰って来る!」
「な……っ」
 絶句して止めに入ろうとヴェストは手を伸ばしたが、俺の方が一歩早かった。靴を履き替えて俺は玄関のドアを押し開く。ドイツの怒号が響いてきたが、ドイツの怒鳴り声は聞きなれたもので、何も恐くなんてなかった。俺の目指す場所は、モスクワだ。

 有り金全部を叩いてなんとかシェレメーチエボ空港へと辿り着く。そこから何度も行き慣れたロシアの家へと向かった。
 ロシアは今どうしているだろうか。仕事中だろうか。それとも家でのんびりぼーっと過ごしているのだろうか。様々な想像を膨らませるが、楽しい気分ではない。記憶を失くす前の俺というのは、とんでもない事をロシアに言ったのだ。そしてそれは、ロシアを深く傷つける事となった。
 俺は去年の十二月、モスクワのロシアの家へと訪れた。まるで今のように、思い立ったが吉日とばかりに。ロシアなら俺の期待に応えてくれると思っていた。
 目的地へと到着したのは夜中だった。夜ならばロシアも家に居る事だろう。ロシアの家のブザーを鳴らす。けれども、中から人は出て来ない。俺は何度もブザーを立て続けに鳴らした。
「煩いよぉ、何時だと思ってるの?」
「よぉ」
 漸く出て来た家の主に俺は笑い掛けた。あからさまに彼は嫌そうな表情を浮かべ、開いたドアを閉めようとするが、俺はつま先をドアに挟み込んでそれを止める。
「イワンちゃん、何で俺に嘘を吐いたか教えて貰おうじゃねぇか」
「そのむかつく態度……思い出したの?」
「おかげ様でな」
 絶望の色を見せたロシアを余所に、俺はドアに手を掛けてこじ開ける。そしてずかずかと自分の家のように中へと押し入った。
「漸くうとうとしてきたところだったのに」
「なんだよ眠れなかったのか?」
「当たり前でしょ、あれからずっと寝覚めも悪いよ」
 誰のせいだと思ってるの、とロシアは言った。ロシアにもう嘘を吐こうとする気配はない。
 リビングのソファには毛布が広げられていた。どうやら寝室ではなくここで眠ろうとしていたらしい。毛布をくるくると腕に手繰り寄せて、その隣りに「座りなよ」と促された。俺はロシアの隣りに深く腰を掛ける。
「本当に全部思い出したの?」
 恐れるような、そんな様子が見て取れた。
「多分な」
 俺はそう言って、記憶を失う前の事を話し始めた。

 十二月のあの日も深夜だった。ただあの日は昼には家を出ていた。そんな遅くになったのは、雪で飛行機が遅れたからだった。
 俺はロシアの家に辿り着くと、身体に積もった雪を払い落としブザーを鳴らした。
「……プロイセン君?」
 覗き穴から俺の姿を捉えたのだろう。普段は毛嫌いをして近づこうともしない俺の姿に意外そうな声で呼んだ。間もなく鍵を外す音が鳴りドアは開かれて、「上がって」と驚きと戸惑いが混ざりつつも嬉しそうに中へと案内した。
「こんな夜中にどうしたの?ドイツ君と何かあったとか?」
 普段の行いからして、ヴェストと何かあったからと言ってロシアのところに来るなんて事はないはずだ。周囲から見た俺は、きっとロシアを頼ったりなどしない。顔を合わせれば何かにつけて逃げようとする俺に、ロシアはちょっかいを掛けて来るが俺からの好意などあるようには思えないだろう。
 ヴェストの事ではないにしろ、ただ今回はロシアだけが頼りだった。
「頼みがあって来た」
「僕に?なんだろ、僕が出来る事なら何でも協力するよ」
 ロシアは温かい紅茶淹れてあげるから座って待ってね、と告げキッチンへと引っ込む。俺は言われたままソファに身を預けた。この後告げる一生を決める『頼み事』というのに少し身体は強張っていた。ふぅ、と思わず溜め息を吐いたところで、ロシアはトレーにティーセットと菓子を乗せリビングへと戻って来る。
 ちょっと詰めてと言って俺の隣りにロシアは腰を下ろし、テーブルに置かれたサモワールのティーポットに茶葉を入れてそれに湯を注ぐ。ロシアの紅茶の淹れ方は紅茶自慢のイギリスの淹れ方とは違う。濃く煮出した紅茶をティーカップに注いで、「濃さは自分で調節してね」と言われたので、俺はサモワールからお湯を足して適当な色になったところで、それに口に付けた。ロシアも自分のカップに紅茶を注ぎ、お湯を足して味見をしていた。味が濃かったようで、数度お湯を足し直す。
 一緒にロシアが持って来た、苺のジャムと焼き菓子のプリャーニキの甘い香りが紅茶の香りと合わさって、俺に安らぎを与えた。
 俺は、まぁまずは聞いてくれと経緯から話し始める。
「俺は今まで軍国として結構頑張って来たつもりだ。何度となく死にかけたが、格好良く蘇っただろ?」
「格好良いかはともかく昔からしぶとかったよね」
 プリャーニキを一摘みしてロシアはそう言う。言い方は悪かったが、ロシアの懐かしむような表情に、思えば俺とロシアの付き合いは結構な長さだった、と思い起こした。
「もう今の世の中は軍国なんていらねぇ。プロイセンという国も既に滅んだ」
「そうだね。なくなっちゃったね」
「一時期は東ドイツとして生きていた俺だが、今その領土の仕事はヴェストが一纏めにして担ってる」
 そう、今は何もする事がない。俺がいなくても世界は回っていくものだし、今の俺は何もしなくていい。
「たまには手伝ってあげたら?どうせ暇なんでしょ」
「もうあいつは一人で何でも出来る」と言えば、ロシアは何が言いたいの、という表情を浮かべた。そろそろ頼み事の答えを言うべきだろう。
 俺はロシアの菫色の瞳を見つめた。
「俺を殺してくれ、ロシア」
 ロシアの目が見開く。
 驚いただろうか。こんな後ろ向きの頼み事をするなんて、俺らしくはなかっただろうか。それでも俺は決めたのだ。ロシアの手によって、死のうと。
「お前なら俺を殺す事くらい簡単だろ?」
 俺はロシアの事が嫌いだった。長く一緒に居る愛する者の手で死ぬのは悲しいだろうと思ったから、ロシアにならば殺されても良いと考えたのだ。自分の最期が嫌いな奴で締めくくられるのはちょっと嫌だったが、途中で生きたいと思い直して死ぬよりはずっといいだろう。
「……多分出来ると思うけど」
「国力もねぇし人間と同じようにあっさり逝けると思うぜ」
「プロイセン君は死にたいの?」
 人の死を大したことないように無垢な顔で、ロシアは俺に疑問を投げかけた。
「違う。死にたいんじゃない。殺されたいんだ」
 この違いが分からないのか、と俺はロシアに問い掛ける。ロシアは紅茶を啜ってこう言った。
「死ぬなら一緒でしょ?」
「格好良い俺様に自殺をしろとでも?」
「殺されるよりは格好良いんじゃないかなぁ」
 ロシアとの意見は噛み合わないが、でも、とロシアは微笑んだ。
「僕を頼ってくれるのは嬉しいよ。いいよ、殺してあげる」
 ロシアは俺の願いを聞いてくれるようで、死に対して躊躇いがない。余りにも容易かった。
「ドイツ君には何て言うの?」
「旅に出たって言っておけ。もうガキじゃねぇんだ」
「そうかなぁ」
 折角仲良くなれたのに君のせいでまた僕の事を嫌いになっちゃったら嫌だななんて言うけれど、俺がロシアを頼った事の方が嬉しいようで困った様子は殆どない。
「これが最期の晩餐だね。御馳走でもなんでもないけど」
 もう死ぬ準備は出来てるの?とロシアは問う。俺は、ここに来る時点で死ぬ覚悟なんてとっくに決めている、と返した。
 窓の立て付けがそれほど良くないのか、風でガタガタと音が鳴る。外は吹雪いているようだ。普段なら帰りの足を考えてしまうのだが、今日の俺はここから帰るつもりはない。
 ロシアは隣りに座る俺の首に手を掛ける。緩々と力を込められた。殺すなら一思いにやって欲しいが相手にロシアを選んだ時点で叶わないだろう。ロシアはそんなところを気遣える奴ではない。
「プロイセン君、さようなら」
 苦しさに咳き込みそうになるが、間もなく強く締められた手の力に咽る事すら出来なくなった。呼吸は出来なくなり、頭の中が霞み、視界が眩む。ああ、最期なんだと思った。最期に見るのがロシアのいつもの何を考えているか分からない微笑みで終わるのは嫌だったが、ロシアは俺の頼みを聞いてくれた。
 思えばこいつとは本当に長い付き合いだった。昔はこいつも泣き虫で、よくちょっかいを掛けて泣かせていたのは俺の方だった。時折怒った時には恐いと思う事もあったが、ガキの頃はよく遊びに誘ったものだ。
 ロシアの事を嫌いになったのは、俺の領土を奪い取った挙句ヴェストの領地まで奪おうとした頃だ。貪欲すぎるあいつの事が許せないと思った。それからはロシアが俺に話し掛けて来ても無視をしたり逃げたりした。ソビエトに居た頃、ロシアの虫の居所が悪い時はそんな態度を取ると殴る事もあったが丈夫な俺はよく殴り返したりもした。結局、東ドイツとして生きていた頃は殴り合いの喧嘩が多かったがロシアの方が力は上で俺は怪我が絶えなかった。
 社会主義国の優等生と言われた俺だったがドイツ東西が再統一を果たし、ヴェストにとってのお荷物と言われるようになり、俺は悔しいと思っていた。いつだってヴェストに道を示す良い兄で居たかったのだ。これなら東ドイツとして、社会主義の優等生として格好つけていた方が良かったのではないかと思い、何度かロシアの元に行き弱音を聞いて貰った事もあった。今では悔しいとは思わないが、もう諦めがついている。自分の出番はもうないと。
 ロシアは残酷だが、優しい。
 俺はお前のそういうところ、
「好き…だぜ、ロシ、ア……」
 いつの間にか俺は、自分の全てをロシアに差し出してしまっても構わない程、ロシアの事を気に入ってしまっていたのだろう。

 静かだ。あの時と違うのは春が来て外が吹雪いていない事と、客としての饗しをしないロシアくらいだ。毛布を抱き抱えそれに顔を埋めて聞いているロシアに、俺は再度問い掛けた。
「……どうして嘘なんか吐いた?どうせすぐにバレるだろ」
 俺をあのまま部屋の中に閉じ込めていたとしたら何も知らずに居られたのかもしれないが、ロシアはヴェストに会わせようとした。行動が矛盾している。
「プロイセン君が二度と死にたいって言わないように」
 震えた声は毛布に溶けていく。
「君の首を締めて意識が無くなった後、僕……急に寂しくなっちゃったの」
 ぐず、と鼻を啜る音。まさか泣いているのだろうか。
「本当に殺しちゃったのかと思って息を確かめたら、君は生きていた。だけど目を覚まさないの。部屋は外の吹雪いている音だけが聞こえて、恐かった」
 肩を震わせるロシアに俺は何と言えばいいのか分からず、ただ黙って聞いていた。
「朝が来てもね、君は目覚めないの。何日経っても君は起きる気配を見せなかった」そう言って、ロシアは毛布をぎゅっと握りしめる。
「……殺してくれるんじゃなかったのか?頼みを聞いてくれるって言ったくせに、行動して、今更後悔したのかよ」
 後先考えない子供のようだ、と俺は感じた。ロシアはそこで顔を上げて俺に向かってこう言った。
「だって君が僕を必要としてくれたんだもん!君が僕にお願い事をしてくれたんだもん、そりゃ叶えてあげたいと思ったよ!」
 涙をぽろぽろと零し、頬を濡らしたロシアは鼻から耳まで真っ赤だった。
 ロシアに俺を殺してもらおうと思ったのは失敗だ。だって、思っていたよりロシアは俺の事を好いていたようだから。俺がロシアの事を最後まで嫌いだと思っていたなら、好意を向けられていたとしても裏切る事は出来たかもしれない。だけど、そうじゃない。
「君が目覚めた時に僕は君が死ぬのをいつでも止められるように……誰かに殺されたいと思ってもそう出来なくするために、仕事場の医務室に運び込んだ。仕事を休むと上司が何を言うか分からなかったから」
 だから、目が覚めた時医務室で書類を纏めていたのか。
 記憶のなかった俺はロシアにとって好都合だった。殺してくれなんて言い出すはずがないから。
「ねぇ」
 ロシアはぐしゃぐしゃの顔をこちらに向けながら、問い掛けてくる。
「思い出した君は、また僕に君を殺してくれって頼むの?」
 その顔があまりに酷くて、俺は声が出なかった。
「ねぇ。もう二度と僕に君を殺せなんて言わないで……。死のうとなんて考えないで」
 ロシアの命令は、今では何処か心地良い。
「君の事は僕が必要とするから、君は僕と一緒にこの世界で生きてよ……っ」
 泣きじゃくりながら、裏返った声でロシアは乞う。俺はもう誰にも必要とされていないと思っていた。いなくても支障はないと。だが、違っていたようだ。
「医務室でお前は俺に『死なないでね』って聞いたろ?」
「うん……」
「俺は『死にたくねぇ』って答えただろ」
 それに、と付け加える。
「お前が居る世界は思っていたより悪かねぇ」そう言うとロシアが数度瞬きをした。その瞬間、溜めていた涙の粒が零れ落ちる。キョトンとした表情を浮かべてロシアは俺を見つめた。
 俺は「酷ぇ顔」と言って自分の袖でロシアの涙を拭ってやる。すると何を思ったかロシアは突然俺を抱き寄せて、わんわん泣き出した。
 どうやら安心したようだった。
「おい、離せ……っ」
 ロシアの腕の中は温かかったが、涙で濡れた毛布のせいでその箇所に当たった頬が冷たい。それに狭くて苦しい。解放するように何度も言ったがロシアは一向に俺を手放さず、朝が来るまで俺はロシアの泣き顔に付き合った。

 ピンポン、と来客のチャイムが鳴り響く。俺は玄関のドアを開けるとそこに立っていた図体のでかい男に態とらしく溜め息を吐いた。
「…………アポ取れよ」
「君だっていつも取らないくせに」
 あれからロシアはよくドイツに来るようになった。ヴェストと鉢合わせる事もあったが今のところ揉めたりはしていない。仕事の上でもプライベートでも悪い仲ではないようだ。ヴェストには俺がロシアに殺してくれと頼んだ事は伏せられている。記憶を失ったのはただの事故だと話している。これが誰も傷つかない幸せな嘘というものだろうか。
「俺様は忙しいんだよ。お前程暇じゃねぇ」
「ご隠居様がよく言うよ。先月『暇だ』って言って突然僕の家に押しかけて、家の前で待ちぼうけ食らってたのは誰?」
「あれはその……なんだ、お前の家の前でPSPしてただけだ!」
 ヴェストとロシアの仲だけではなく、俺とロシアの仲もそれほど悪いものではない。ロシアがドイツに遊びに来るように、俺もよくロシアのところに遊びに行った。
 ロシアはコーヒーを出しても文句を言わなかった為、俺の家に来た時にはいつもコーヒーを出している。俺はロシアを家の中に入れると、いつも通りにコーヒーを淹れた。コーヒーをリビングに持ってくるとロシアはソファに座って寛いでいた。
「ヴェストが作ったクーヘン残ってるけど、食うか?って言うか、食え」
「食べる!美味しいよねぇ、ドイツ君のクーヘン」
 ヴェストが聞いたらその趣味を恥じてしまうのだろうが、自慢の弟が作ったクーヘンを誰かに食べさせたくて仕方がない俺は断らせる気なしだった。ヴェストが昨日の休みの日に作ったクーヘンは、今は暑い夏だから冷蔵庫で冷やされている。ロシアの返事を聞く前から俺は冷蔵庫からクーヘンを取り出して、二人分小皿に移すと、それらとフォークを持ってリビングへと戻った。
「今日は泊まってくのか?」
 クーヘンの皿とフォークをロシアの前に置くと、間もなくそれに手をつけた。そして、俺もソファに身体を落ち着ける。
「うん、そのつもりだったけど駄目だった?」
「いやそうだろうと思ってた。いいぜ、いつもの二階のゲストルーム使えばいい」
「有難う」
 明日はミュンヘンに出て観光したい、とロシアは言ったので明日なら俺が付き合ってやらなくもないと答えてやった。するとロシアは嬉しそうにして、付き合ってくれるんだ楽しみだなぁと微笑んだ。
「なんだ、来ていたのかロシア」
 ガチャンと玄関から物音がし、リビングに顔を見せたのはヴェストだった。
「お邪魔してまーす」
 ひらひらと手を振ってロシアはヴェストに答えた。
「本当邪魔くせえよなぁ」
「何か言った?」
 冗談だ、と言いながらクーヘンを一口、口に運んだ。
「そう言えば、こっちでは今年もちゃんと向日葵が咲いたんだよ。プロイセン君、近いうち僕の家に遊びにおいでよ」
「そうだなぁ」
 悪かねぇなと答える。ソビエトに居た頃はよく向日葵畑を眺めたものだ。
「お前達、仲が良いな」僅かに困ったような笑みを浮かべヴェストはそう言う。ヴェストは本当はまだロシアを許してはいないのだろうか。
 ロシアはそれに微笑んで答える。
「だってプロイセン君の事大好きだもん」
「俺はそれほどでもないけどな」
 嬉しそうだった笑みから一転、ぷくっと頬を膨らませて「え〜?」と文句ありげな表情をするロシア。
「いいもん、向日葵畑にはドイツ君に来て貰うから」
「え?」
 突然話題を振られて動揺するヴェストに俺はケセ、と笑った。
「いいんじゃねぇの、三人で行こうぜ」
 今は暑い暑い夏。季節は巡る。これからも長い時が過ぎていくのだろう。その中で俺は、また俺自身の国としての生き方に疑問を持つ事があるかもしれないが、今後俺がロシアに殺されたいと願う事はないだろうと思う。ロシアがこの世界に繋ぎ止めてくれる。俺は、ロシアが俺を殺し損ねたおかげで気づいた事があった。
 俺はロシアに恋をしているという事を。

ろしちゃんに殺されたがりなぷが書きたかったようです。
同人誌の再録です。

2015/9/15アップ